●未来を変える私たちの「勇気」


個人的な話で恐縮だが、日本テレビ系で放映されている「ゆとりですがなにか」というドラマを、毎週楽しみにしている。元々私は宮藤官九郎氏の脚本が好きで、彼の作品はよく見ているけれども、本作はこれまであまり目立たなかった、社会批評的なテイストが光っているのが特徴だと思う。

 概略をごく簡単に述べよう。主人公の3人は、居酒屋チェーンの社員、小学校の教員、そして毎年東大を受験している風俗店の店長である。一見、接点がありそうにない彼らだが、いわゆる「ゆとり世代」であるという点だけは共通する。物語は、登場人物たちがいくつかの「事件」を通して人間的に成長していく姿を描いていく。キャスティングも素晴らしい。同時に、私たちの社会が抱える、あらゆるタイプの「コミュニケーション不全」や「無責任」を、まるで見本市のように次々と繰り出してくるところは、ある種の凄(すご)みを感じさせる。

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 さて、このドラマの題名には、私たちの社会が、特定の世代を「ゆとり世代」と勝手にレッテル貼りし、しばしば否定的な意味でこの言葉を使っている現状に対して、異議申し立てを試みる意図があるのだろう。実のところ、少し調べてみると分かるが、この「ゆとり世代」という言葉のよって立つ基盤はあいまいだ。

 まず、多くの人は「ゆとり教育を受けた人たちがゆとり世代だ」と漠然と理解しているだろうが、そもそも旧文部省、そして現在の文部科学省は「ゆとり教育」という言葉を公式にはほとんど使ってこなかった。しかも戦後、学習指導要領は何度か大きく改訂されたが、「受験戦争」や「詰め込み教育」などへの批判をうけ、すでに1977年には「ゆとりある充実した学校生活の実現」へと政策の舵(かじ)を切っている。私は48歳だが、学生時代、「君たちは勉強する内容が減ったんだよ」と教師が言っていたのを覚えている。そのような観点でいえば、私自身も「ゆとり世代」と呼べないこともない。

 その後も指導要領は89年、また98年にも改訂されたが、特に後者では完全学校週5日制が導入されたこともあり、学力低下を懸念する声が広がった。さらに、2003年の経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)で、日本の平均点が落ちたのだが、その原因を「ゆとり路線」に求める識者も多かった。このような背景から、特に、この1998年の指導要領で教育を受けた人たちが「ゆとり世代」と呼ばれるようになったと考えられる。

 2008年の学習指導要領の改訂は「ゆとり教育からの決別」と受け止められたが、実は基本的な精神に変更はなかった。事実の暗記よりも本質的な意味での「考える力」を育てることを重視しており、これは「知識社会」とも言われる現代において、とりわけ先進諸国においては、とても大切な能力といえる。

 さらに12年のPISAで平均点が上がったときも、主なメディアは「ゆとり脱却の効果」と報じたが、そもそもこのテストを受けたのは小学校の時から「ゆとり教育」を受けてきた生徒たちであり、むしろそのおかげでPISAの成績は上がったのではないかという意見もある。実際、PISAは知識自体よりも、その活用を問うタイプの設問が多い。

 「ゆとり批判」の裏には、新しいタイプの教育の実態をよく知らない、「上の世代」の不安感があるのかもしれない。

 このほかにも、「ゆとり教育批判」は、精査すると矛盾する点も多く、改めてよく考えてみる必要がある。たとえば、佐藤博志・岡本智周共著の「『ゆとり』批判はどうつくられたのか」(太郎次郎社エディタス、2014)は、背景事情が多角的に掘り下げられた好著だ。

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 1990年12月、国民生活審議会は、「ゆとり、安心、多様性のある国民生活を実現するための基本的方策」について、当時の首相から諮問を受けた。その頃の日本は、経済統計上は世界最高レベルに達していたはずなのに、長時間労働や住宅事情の悪さといった国民の生活実態があり、必ずしも「豊かさ」が実感されていないという問題意識が共有されていたのだ。これに対して、来たるべき時代には、この「ゆとり」「安心」「多様性」の充実が重要であると理解されていたのである。

 しかし四半世紀が過ぎた今、ここで述べたように「ゆとり」は、むしろ揶揄(やゆ)の含みすら帯びているのに対し、「安心」は――その充実度が十分かどうかは措(お)くとしても――より一層、関心が高まっている。一方「多様性」については、最近、いわゆる「1億総活躍社会」の影響もあってか、やや注目されてきたようにも感じるが、OECD諸国と比べてみれば、依然としてその内実は乏しいと言わねばなるまい。

 「安心」の重視と、「ゆとり」や「多様性」の軽視は、平成に入ってからの、この社会が向かっている方向性を象徴しているようにも思われる。かつて、最適化された工業化社会を完成させた日本が、冷戦の終結・グローバル化という環境条件の激変に対して、適切な対応を打てなかったことと、それは深いところで結びついているのではないか。

 少なくとも、何重もの意味で生産的でない「ゆとり世代批判」は、やめた方が良い。今回のドラマは、この社会に最も足りないのは、未来を変える私たちの「勇気」、それ自体ではないかと感じさせてくれた。最終回が楽しみだ。

かみさとたつひろ 1967年生まれ。千葉大学教授。本社客員論説委員。専門は科学史、科学技術社会論。著書に「文明探偵の冒険」など
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